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なんかいろいろ。
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 ツンデレに萌えるのって、
「不良がたまにいいことをすると『実はいい人だった』と思われる法則」
 に似ている気がする。
 凡用人型兵器です。
 最近一番ショックだったことは、「まりもっこり」の携帯ストラップを堂々とつけているうら若きおねーさんを電車で見かけたこと。
 二番目にショックだったことは、うちの父が同じものをつけていたことです。

 さて今日のネタはこちら
「宗教なんてやめたほうがいい」という日記が話題

 こういう意見ってたまに見かけるんですけど、不思議なのは、こういう主張をする人って、何かにお祈りしたこと、ないのでしょうか?
 だとするとその人は、自分の力、もしくは人類の英知で、世の中のありとあらゆる問題を解決できる、ないし謎を解き明かせると思っているのでしょうか。
 いや、別にそれならそれでいいんですけど。

 一口に宗教といっても色々ありますが、少なくとも元始において、宗教というのは、
「なぜ、世界はこのように世界であるのか?」
「なぜ、我々はこのように我々であるのか?」
「我々は、どこからきてどこに行くのか?」
「あの分けの分からん現象は、一体いかにして説明されるべきか?」
 という、酷く根源的な疑問から出てきたものだと思います。
 それが例えば、唯一神がいて「光あれ」と言ったからだよとか、イザナギとイザナミが成り成りて余っている部分と足りない部分があったからだよとか、魂は不滅で延々と輪廻するのだよとか、そういう「お話」を信じることで、人は一応はそういう疑問を解決することにしたのでしょう。

 ですが、科学の発展と共に、どうも俺達が信じてきたことは違ったらしいぞということがわかってきて、「今更そんな御伽噺信じてるなんて、馬鹿じゃねえの」と思う人が増えてきた、というのがいわゆる「無神論者」の増加ということなのでしょう。
 問題は、既存の宗教や神話を否定するのはいいとして、しかし科学は「その代わりになるもの」を提示できなかった、という点にあるように思います。

 科学は、宇宙はビッグバンでできたらしいことを証明しました。
 しかし、じゃあその前はどうなってたの? っていう話になりますし、なぜビッグバンは起きたのか? っていう話にもなりますし。
(なんか、その前は「無のゆらぎ」っていうのがあったらしいんですが、なんかもう僕には理解できません。何も無いなら何が揺らいでいるんだ。そしてその、「無のゆらぎ」の前には何があったんだ)
 また、どうも人間死んだらそれでおしまいということになっているようですが、じゃあ、今ここで考えている「僕」という人格は一体どこに行ってしまうのか? という疑問が生まれます。
 だって死体だって、いずれ土になって、「どっかに行く」わけですから、精神だってどっかに行ってもおかしくないじゃないですか。
 それとも精神などというものはまやかしで、全て電流と化学物質の反応に過ぎないのでしょうか。
仮に、目の前に僕とそっくり同じ物質を作り上げて、同じように電流を流したら、僕と同じように物を考え、同じように動くのでしょうか。
 だとすると、一体生命というものの本質はどこにあるのでしょうか。

 もし、こういった疑問をまったく抱いたことが無いのなら……あるいは、このような疑問などまったくどうでもいいと考えているのなら、確かにその人には、宗教は必要ないでしょう。
 その人の中には、きっと、「人知を超えたもの」というのは、存在しないのだと思います。
 さっきも言いましたけど、それはそれでありだと思います。

 ただ、「必要ない」という人がいる一方で、例えば世界中でなんか原理主義みたいなものが活発化していますし、本邦においても、新興宗教に入信する人は毎年確実に存在します。
 本当はひょっとして、みんな「なんでこうなったのか」「これからどうなるのか」説明して欲しいんじゃないでしょうか。
 本当はみんな、何か1ランク大きな存在から、「お前はここにいていいんだよ」と言って欲しいんではないでしょうか。
 例えそれが、客観的に見てどんなに荒唐無稽でも。
 だから、「神は死んだ」あとでも、原理主義や、新興宗教といった、なんか危ないものが入り込む余地があったのではないでしょうか。

 だって、完全な科学的観点に立って言えば、現在のところ、僕の意識は化学反応で成り立っていて、僕が今生きているのは単なる偶然の結果で、それどころか世界は特に意味も無く存在していることになってしまいますもの。
 何をどうしようと僕はそのうち死にますし、死んだら特にそのあと何があるでもありません。
 それはなんというか……あまりにもつまらないし、むなしい。

 もし、つまらなくないし、むなしくもないという方がいらっしゃったら、あなたは超人に向いていると思いますので、ニーチェ哲学など学んでみることをお勧めします。
 あるいは悟りを開いて仏陀になれるかもしれません。

 僕は、人には物語が必要だと思っています。
「俺は誰かに必要とされている」とか、
「俺がここにいるのには、ちゃんと理由がある」とか、
「姿は見えなくとも、ご先祖様はちゃんと私達を見守ってくださっているのだ」とか、
「病気が治ったのは○○先生のおかげ」とか、
「正義の大勝利 畜生にも劣る週刊○○に遂に仏罰下る」とか、
「神に殉じて死ねば天国で可愛い処女が大量に出迎えてくれます。死ぬのは怖くありません。アッラーフアクバル」とか、
 まあ後半三つはどうかと思わないでもないですが、それで気力が湧いてくるのだから、まあいいんじゃないの、というのが僕の意見です。
 何かを信じないと、世の中なんてむなしいですよ。

 とはいえまあ、強く信じるが故の弊害というのも確かにあるわけで、原理主義のテロとか、進化論を教科書から削除しろとか、「ん、なんだこの電話番号、だれだろ……はいもしもし」「あ、凡用? 久しぶり、田中(仮)だけど」「あ? ……あー、田中? 中学の?」「そう、久しぶりだな! 元気?」「あー? まあ……」(中略)「ところで今度の選挙、どこに入れるか決めた?」「決めた。共産党」「……」「それじゃ」→着信拒否
 とか。
 こういう人たちって、いい事をしていると思ってやってる分、余計始末に終えないのよね。
 確かにこういうのを見ると、宗教なんて百害あって一利なしと思う気持ちも分からないでもありません。
 大体なんで白人があんなに偉そうなのかって、「俺達は神に選ばれた一等人種だ」って割と本気で思ってるからですしね。
 一度でいいから、あの手の人たちに「イエスってアラブ人なんじゃないスか」って言ってみたいなあ。
 まあ、アラブ人もアングロサクソンもコーカソイドには違いないですけど……

 ともあれ、悪い面だけを捉えて必要ないと断じることは、いい面だけを捉えて必要だと断じるのと同じくらい愚かなのではないでしょうか。
 要は何でもバランスと使いどころで、例えば今話題のタミフルだって、確かにインフルエンザの特効薬には違いないわけでしょう。
 同様に宗教だって、どうにも説明のつけづらい事柄を説明し、存在を保証してくれる、とても便利なものという側面もあるわけです。
 だから、なんでも頭ごなしに否定するでなしに、「君の考えは分かった。でも、こういう考えもあるんだよ」というふうに伝えられれば、僕らはもっと宗教とうまく付き合っていけるんじゃないか、と思うのですが……

 まあ、信じてる人を説得するのって、難しいですからねえ。
 僕の電話番号どこから知ったんだろうなあ、田中君。


 そんな僕は明日……というか今日、すぴこんに行ってきます。
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無題
行くんですかwwwwレポート期待しています!

…あれ、4月1日?(0w0;)
hit URL 2007/04/02(Mon)07:48:43 編集
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