なんかいろいろ。
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XBOX360「トラスティベル〜ショパンの夢」が、キャラクターが可愛くて面白そうだなあと思うのですが、この手の、歴史上の実在人物が主役を張るゲームというのは、歴史シミュレーションや無双系ゲームを別にすると何かあっただろうかと考えてみたら、一番最初に出てきたのがゲバラでした。
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100000ヒット突破しました。
皆様のおかげです。ありがとうございます。
お約束のブツをどこかに上げておきました。
トップページから行けます。
割とすぐ見つかると思うのでお暇でしたら探してみてください。
思ったこと。
エロ書ける人ってマジすげえ。
謎のザコさんとか藤村さんとか超偉大。
ちゅうわけで、なにぶん初めてなもので色々と足らない部分はあると思いますが、まあいいんじゃね?とか、馬鹿野郎こんなんで○けるかとか、何でもいいので何か言ってくださると嬉しいです。
結局半分だけ先に上げる形になりましたが、残りもちゃんと書いてますので、近いうちに出せると思います。
なんていうかまあ、お待ちください。
それでは、今後とも色々とやっていくつもりですので、当「妄想エリクシル」を、どうぞよろしくお願いいたします。
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お約束のブツをどこかに上げておきました。
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割とすぐ見つかると思うのでお暇でしたら探してみてください。
思ったこと。
エロ書ける人ってマジすげえ。
謎のザコさんとか藤村さんとか超偉大。
ちゅうわけで、なにぶん初めてなもので色々と足らない部分はあると思いますが、まあいいんじゃね?とか、馬鹿野郎こんなんで○けるかとか、何でもいいので何か言ってくださると嬉しいです。
結局半分だけ先に上げる形になりましたが、残りもちゃんと書いてますので、近いうちに出せると思います。
なんていうかまあ、お待ちください。
それでは、今後とも色々とやっていくつもりですので、当「妄想エリクシル」を、どうぞよろしくお願いいたします。

ちょっと思い立って色々と大掃除をしてみたら、懐かしいものが出てきました。
ウルトラマンとガンダムの本。
何があれだって、これ僕が五歳のときに買ってもらった本なんですよね。
よく読めたもんだ。
特にウルトラマンのほうなんて厚さ2センチくらいある上に、めっさ漢字使いまくりですよ。(振り仮名ありましたけど)
天才だったんじゃないのか僕は。
どうせ絵だけ見てたんだろという意見もあるでしょうけど、でも確かに読んでいたという記憶があるんですよ。朗読してた記憶が。
幼い僕は天才だったに違いない。
今はお察しください。

ていうか何があれだって、読める読めない以前に五歳児がこんなに濃い本読むなよって話ですけども。
気になるのが、Sガンダムってこんな立体になってたんだというところなんですが、今読み返して始めて分かるその価値に。
他にも、カードダスとかガチャポンの資料が惜しげもなく載っていたりして、読んでいてテンション上がります。
ウルトラマンの方は方で、あさりよしとおが漫画描いていたりして……
うーん、実は結構凄いものなのかもしれない、これらは。
どっちもやたらボロボロですが。
まあ、せっかく今まで保管してきたので、これからも保管していこうと思います。
三十年後くらいに価値が出るかもしれません。
僕のPCがVistaになりました。
巷で駄目OSだ駄目OSだと噂される話題の彼(?)ですが、じゃあどれくらい駄目なんだろうと思ってあえて挑戦してみたら、
駄目でした。
こんな「余計なお世話」なOS見たことねえ。
それでいて色々と対応していないソフトが多くて、少々困り気味です。
あと、MIDIマッパーがない。
ソフトウェアMIDIが使えない。
(簡単に言うとMIDIが恐ろしくしょぼくなったりそもそも演奏されなかったりします)
何これ何の嫌がらせ?
SRCユーザーの僕に対する挑戦?
今更MIDIなんて使ってんじゃねーよmp3使え貧乏人どもがっていうマイクロソフトのお達し?
結論:Vistaはまだやめといたほうがいい。
Sp1あたりで何とかなってることを祈りたいです。
それまで僕はMIDIは全部mp3に自分で変換して聴くことにします。
一応擁護すると、それ以外のところはそう悪くもないです。
別に良くもないですが。
ちなみに、今まで使っていたXPのノートは妹に上げました。
可愛げのかけらもない無骨な外見の上にバッテリーが干上がっているという代物ですが、まあ喜んで使っているようなので良しとしましょう。
ついでにあれ、ダイバダッタ君って名前付けてたんですが、それもまあ黙っておきます。
このパソコンは名前どうしようかな。
マハーカッサパ君とでも名づけようか。
分割更新でよくね?
凡用人型兵器です。
YOSAKOIソーラン祭は、ここ最近は全国区での知名度もそこそこあると思われますが、実のところかなりアンチが多いお祭りでもあります。
象徴的だったのが、今日の北海道新聞の記事で、札幌市民にYOSAKOIソーラン祭が好きか嫌いかアンケートをとったら、なんと55%が「嫌い」と答えたそうです。
曰く、商業主義に染まっている、服装が暴走族みたい、うるさい、お祭というよりはただのコンテストだ、云々。
かくいう僕も、始めのころはよく見ていましたが、このところは見る気が起きず、街中に人が多くて困るなあ位の感想しかありません。
おおよそ拡大一方の傾向が続いていたYOSAKOIソーラン祭ですが、こういった声が大きくなれば、いずれ方向転換の必要に迫られるでしょう。(そもそも、こういう意見が表に出るようになってきたこと自体が大きな変化)
だから札幌だけじゃなくて全道的にやれって去年僕が言ったんですよ。今こそ、この意見を真剣に検討してみるべきなのではないでしょうか。頼みますよはるみちゃん。
まあ、今年は夕張でもやってるみたいですけどね。
さて、イベントとしてのYOSAKOIソーラン祭については色々な人が言っているので、今回はお祭としてのYOSAKOIソーラン祭について考えてみたいと思います。
北海道に本当の意味でのお祭りは、あまり存在しないと僕は考えています。
「本当の意味でのお祭り」っていうのはつまり、「お祀り」の要素が含まれているもの、ってことね。
そもそもの日本的なお祭りというのは、規模の大小はあれど、村の神様あたりに豊作を祈願したり実りに感謝したり怒りを静めていただいたりするために行うもので、盆踊りだって元をただせば立派な宗教的行事だったりするわけです。
しかるに、北海道にはこれといった土着の神様がいねえわけです。
正確には、いたけど和人が駆逐しちゃったわけです。
ですんで、まあ北海道でもそれなりに古くから人が入っていた地域はそれなりの神社がありますが、特に都市部となりますとそんなものもないわけで、そこでやるようなお祭りっていうのは宗教学的な観点から言えばお祭りというよりはただのイベントになるわけです。
代表的な例としては僕が入ってる町内会が毎年夏に近所の公園でやってるお祭りですが、特にこれといった神様を担いでいるわけでもなく、楽しかったねよかったね、で終わりです。
それが良いか悪いかは別の問題ですが、まあ規模は違えどYOSAKOIソーラン祭もそれと同じなわけです。
つまり、名前こそ「祭り」とついてますが、実際のところは○○神社例大祭なんかよりも浅草サンバカーニバルに近い存在だと言えましょう。やってる内容もそんな感じだし。
いまさら言うまでもないかこんなこと。
じゃ、次いで社会学的な側面から見たYOSAKOIソーラン祭についても考えてみたいのですが、百年位前に活躍したデュルケームっていう学者がいるんですけども、彼は著作において、「祭り」が社会に及ぼす効果についてこんな風にまとめてました。
ええと、彼によれば、社会集団の統合度っていうのは放っておけばどんどん低下するもので、最終的には集団ではなく、数がいるだけの個々人の集まりになってしまうのだそうです。
そこで集団は時折祭儀という「非日常」を執り行い、それによって社会統合度を強めるのですが、それが終わって日常に戻るとまた少しずつ統合度は低下していく。社会集団とはこの繰り返しだ、ということです。
なんで非日常で統合度が高まるのかというと、みんなで一つになってイベントをこなすことで「我々意識」が高まり、テンションの上昇が伝播し、皆してやたら盛り上がるからと、なんかそういう理屈みたいです。
学校祭とかやたらテンションが上がってクラスの結合が高まったでしょ。そんな感じ。
そういう観点から見ればYOSAKOIソーラン祭も祭りと言えなくもないような気がします。踊り子さんたちの結束力はもとより、見物客たちもやあ盛り上がったねえ、という一体感を得られるわけですから。
もともと北海道は、個人主義の風潮が強いせいか、この手の大勢ではっちゃけるイベントが少ねえんですよ。
雪祭りだって、ありゃ人気はありますし凄いとも思いますが、テンション上がるようなイベントじゃないし。
なんで、一大イベントとしてのYOSAKOIソーラン祭というのは、そう悪いものでもないと僕は思っています。
問題は、あんまり楽しめない人が結構いるということで、ほら学校祭のときなんかも必ず一人はいたじゃないですか。皆が盛り上がってる横で、輪に入れず一人で白けてる奴。
まあ僕のことなんですが。
こういうのが増えると、自然と場のエネルギーも低くなるわけで、せっかくのイベントも何の意味もなくなってしまいます。
ですんで、やっぱりYOSAKOIソーラン祭も、より多くの人が楽しめるような、大きな方向転換が必要だと思いますよ?
具体的には、開催地をばらけさすとか、あんま金かけないようにするとか、音量調整入れるとか。
あと、僕の父は「ありゃもうよさこいでもソーランでもねえよ」と言っていましたが、僕に言わせればあれは日活ロマンポルノみたいなもので、ロマンポルノが裸さえ出せばあとは好き放題できたように、あれもソーラン節をワンフレーズ入れるという建前の上で好き放題やるものだとおさえておけば、別段腹も立ちません。
もちろん、好き嫌いは別として。
すっかり忘れてたフォームレス
>東方エムブレムの魔理沙って…アグザル?
誰?
と思って調べてみたらベルウィックサーガの人ですか。
すいませんがサーガ二作はプレイしたことがないので分かりませんです。
魔理沙のコンセプトは、「高火力、高機動、でも命中回避に難有り」というものにしたはずだったのですが、いざやってみるとすっかり最強キャラですね。
バランス調整って難しいです。
次回では、もっと調整には気を配りたいです。
次回?
>俺は予約したぜ!>どき魔女
どっちが先にクリアするか競争だ!
凡用人型兵器です。
YOSAKOIソーラン祭は、ここ最近は全国区での知名度もそこそこあると思われますが、実のところかなりアンチが多いお祭りでもあります。
象徴的だったのが、今日の北海道新聞の記事で、札幌市民にYOSAKOIソーラン祭が好きか嫌いかアンケートをとったら、なんと55%が「嫌い」と答えたそうです。
曰く、商業主義に染まっている、服装が暴走族みたい、うるさい、お祭というよりはただのコンテストだ、云々。
かくいう僕も、始めのころはよく見ていましたが、このところは見る気が起きず、街中に人が多くて困るなあ位の感想しかありません。
おおよそ拡大一方の傾向が続いていたYOSAKOIソーラン祭ですが、こういった声が大きくなれば、いずれ方向転換の必要に迫られるでしょう。(そもそも、こういう意見が表に出るようになってきたこと自体が大きな変化)
だから札幌だけじゃなくて全道的にやれって去年僕が言ったんですよ。今こそ、この意見を真剣に検討してみるべきなのではないでしょうか。頼みますよはるみちゃん。
まあ、今年は夕張でもやってるみたいですけどね。
さて、イベントとしてのYOSAKOIソーラン祭については色々な人が言っているので、今回はお祭としてのYOSAKOIソーラン祭について考えてみたいと思います。
北海道に本当の意味でのお祭りは、あまり存在しないと僕は考えています。
「本当の意味でのお祭り」っていうのはつまり、「お祀り」の要素が含まれているもの、ってことね。
そもそもの日本的なお祭りというのは、規模の大小はあれど、村の神様あたりに豊作を祈願したり実りに感謝したり怒りを静めていただいたりするために行うもので、盆踊りだって元をただせば立派な宗教的行事だったりするわけです。
しかるに、北海道にはこれといった土着の神様がいねえわけです。
正確には、いたけど和人が駆逐しちゃったわけです。
ですんで、まあ北海道でもそれなりに古くから人が入っていた地域はそれなりの神社がありますが、特に都市部となりますとそんなものもないわけで、そこでやるようなお祭りっていうのは宗教学的な観点から言えばお祭りというよりはただのイベントになるわけです。
代表的な例としては僕が入ってる町内会が毎年夏に近所の公園でやってるお祭りですが、特にこれといった神様を担いでいるわけでもなく、楽しかったねよかったね、で終わりです。
それが良いか悪いかは別の問題ですが、まあ規模は違えどYOSAKOIソーラン祭もそれと同じなわけです。
つまり、名前こそ「祭り」とついてますが、実際のところは○○神社例大祭なんかよりも浅草サンバカーニバルに近い存在だと言えましょう。やってる内容もそんな感じだし。
いまさら言うまでもないかこんなこと。
じゃ、次いで社会学的な側面から見たYOSAKOIソーラン祭についても考えてみたいのですが、百年位前に活躍したデュルケームっていう学者がいるんですけども、彼は著作において、「祭り」が社会に及ぼす効果についてこんな風にまとめてました。
ええと、彼によれば、社会集団の統合度っていうのは放っておけばどんどん低下するもので、最終的には集団ではなく、数がいるだけの個々人の集まりになってしまうのだそうです。
そこで集団は時折祭儀という「非日常」を執り行い、それによって社会統合度を強めるのですが、それが終わって日常に戻るとまた少しずつ統合度は低下していく。社会集団とはこの繰り返しだ、ということです。
なんで非日常で統合度が高まるのかというと、みんなで一つになってイベントをこなすことで「我々意識」が高まり、テンションの上昇が伝播し、皆してやたら盛り上がるからと、なんかそういう理屈みたいです。
学校祭とかやたらテンションが上がってクラスの結合が高まったでしょ。そんな感じ。
そういう観点から見ればYOSAKOIソーラン祭も祭りと言えなくもないような気がします。踊り子さんたちの結束力はもとより、見物客たちもやあ盛り上がったねえ、という一体感を得られるわけですから。
もともと北海道は、個人主義の風潮が強いせいか、この手の大勢ではっちゃけるイベントが少ねえんですよ。
雪祭りだって、ありゃ人気はありますし凄いとも思いますが、テンション上がるようなイベントじゃないし。
なんで、一大イベントとしてのYOSAKOIソーラン祭というのは、そう悪いものでもないと僕は思っています。
問題は、あんまり楽しめない人が結構いるということで、ほら学校祭のときなんかも必ず一人はいたじゃないですか。皆が盛り上がってる横で、輪に入れず一人で白けてる奴。
まあ僕のことなんですが。
こういうのが増えると、自然と場のエネルギーも低くなるわけで、せっかくのイベントも何の意味もなくなってしまいます。
ですんで、やっぱりYOSAKOIソーラン祭も、より多くの人が楽しめるような、大きな方向転換が必要だと思いますよ?
具体的には、開催地をばらけさすとか、あんま金かけないようにするとか、音量調整入れるとか。
あと、僕の父は「ありゃもうよさこいでもソーランでもねえよ」と言っていましたが、僕に言わせればあれは日活ロマンポルノみたいなもので、ロマンポルノが裸さえ出せばあとは好き放題できたように、あれもソーラン節をワンフレーズ入れるという建前の上で好き放題やるものだとおさえておけば、別段腹も立ちません。
もちろん、好き嫌いは別として。
すっかり忘れてたフォームレス
>東方エムブレムの魔理沙って…アグザル?
誰?
と思って調べてみたらベルウィックサーガの人ですか。
すいませんがサーガ二作はプレイしたことがないので分かりませんです。
魔理沙のコンセプトは、「高火力、高機動、でも命中回避に難有り」というものにしたはずだったのですが、いざやってみるとすっかり最強キャラですね。
バランス調整って難しいです。
次回では、もっと調整には気を配りたいです。
次回?
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どっちが先にクリアするか競争だ!
なんというか、いつの間にか21世紀になっていたときよりも深い衝撃を受けました。
凡用人型兵器です。
なんかもう、普通に楽しみを通り越して、楽しみすぎて死にそうになってきました。
ゲームとして面白いかどうかとか、もうそんなこともどうでもいいです。
ちょっと人としてヤバいと思いますが、いまさらなのでそれもどうでもいいです。
ドラマで「生徒諸君!」って今やってるじゃないすか。
ドラマの原作じゃない、第一部のほうなら漫画を読んだことあるんですが、単なる学園群像劇かと思いきや結構シビアな話でした。
もちろんただ鬱展開ばかりの漫画というわけではなくて、少年少女たちの青春を精緻に描いた、名作漫画です。
それを思い出しながら、いまさらドラマをちょっと見てみたんですが、なんというかこう……面白みに欠けるというか……
平たく言うと、あまりにも「教師ドラマ」のテンプレすぎるんですよ。
・荒れてる学校があって
・熱血教師がやってきて
・最初は対立しつつも教師の真心に触れて徐々に和解していく生徒達がいて
・実は生徒達が荒れるのは無理解な大人のせいだったのです
金八先生からGTOに至るまで、大体こんな感じ。
今、もうひとつ学校もののドラマやってるらしいですけど、見てませんが絶対こういう筋書きだと確信しています。
違ってたら訂正するので、知ってる方は教えてください。
なぜ僕がこういう話を好まないのかというと、バカの一つ覚えというのもあるのですが、「子供ってそんなに純粋か?」という疑問があるからなんです。
思い返してほしいのですが、まあ程度の差こそあれ、どの学校にも多少は問題はありましたし、問題を起こす生徒もいたでしょう。
それって、大人とか社会のせいでした?
もしかしたら当時はそう思っていたかもしれませんが、今になって思い返してみて、本当にそうだと言い切れます?
どっちかというと、思春期特有の反抗心とか、悪い奴がちょっとカッコいいみたいな、そういう割とどうでもいいような理由じゃなかったです?
クラスの全員、「実はいい奴なのに、社会のせいで悪く染まっていた」だなんて、そんなことありえました?
子供はそんな単純じゃないですよ。子供を馬鹿にしているんでしょうか。
……僕は思うのですが、子供だろうと何だろうと、いい奴はいるし憎たらしい奴はいます。
それは大人の社会でもそうであるように、当たり前のことであり、決して「子供は天使」なんかじゃないのです。
それは自分の思い出を振り返ってみれば誰にだって分かることです。
それに、最終回は、完全に和解した教師と生徒達が一緒に、全員にこやかに笑ってるって……
いくらハッピーエンドだからって、僕はそんなクラス嫌だわ。気持ち悪い。
大体、和解するのはいいとして、生徒達が今までの行いを反省したところを見たことない。
GTO(漫画のほうね)の最終回を読んでも思ったけれど、お前ら担任いじめで廃人にしちゃった先生は放置ですかと。
何の責任も取らなくていいんですかと。
ドラマを作る人、そして見る人は、そういう嘘くささを見ていて感じないのでしょうか。
それとも、「フィクションだから」という理由で、気にしないのでしょうか。
そもそも、原作の「生徒諸君!」にしてからが、そんなテンプレ的子供像から離れた魅力的なキャラクターが活躍する話だったはずですが……
原作ではなく「原案」となっているから、庄司先生(生徒諸君!の作者)がこういう筋書きの話を書いているのかは分からないのですが、そうではないことを願いたいです。
ちなみに、僕が一番好きな学園ものドラマは「さわやか三組」で、二番目は「中学生日記」です。
いいよね、さわやか三組。
凡用人型兵器です。
なんかもう、普通に楽しみを通り越して、楽しみすぎて死にそうになってきました。
ゲームとして面白いかどうかとか、もうそんなこともどうでもいいです。
ちょっと人としてヤバいと思いますが、いまさらなのでそれもどうでもいいです。
ドラマで「生徒諸君!」って今やってるじゃないすか。
ドラマの原作じゃない、第一部のほうなら漫画を読んだことあるんですが、単なる学園群像劇かと思いきや結構シビアな話でした。
もちろんただ鬱展開ばかりの漫画というわけではなくて、少年少女たちの青春を精緻に描いた、名作漫画です。
それを思い出しながら、いまさらドラマをちょっと見てみたんですが、なんというかこう……面白みに欠けるというか……
平たく言うと、あまりにも「教師ドラマ」のテンプレすぎるんですよ。
・荒れてる学校があって
・熱血教師がやってきて
・最初は対立しつつも教師の真心に触れて徐々に和解していく生徒達がいて
・実は生徒達が荒れるのは無理解な大人のせいだったのです
金八先生からGTOに至るまで、大体こんな感じ。
今、もうひとつ学校もののドラマやってるらしいですけど、見てませんが絶対こういう筋書きだと確信しています。
違ってたら訂正するので、知ってる方は教えてください。
なぜ僕がこういう話を好まないのかというと、バカの一つ覚えというのもあるのですが、「子供ってそんなに純粋か?」という疑問があるからなんです。
思い返してほしいのですが、まあ程度の差こそあれ、どの学校にも多少は問題はありましたし、問題を起こす生徒もいたでしょう。
それって、大人とか社会のせいでした?
もしかしたら当時はそう思っていたかもしれませんが、今になって思い返してみて、本当にそうだと言い切れます?
どっちかというと、思春期特有の反抗心とか、悪い奴がちょっとカッコいいみたいな、そういう割とどうでもいいような理由じゃなかったです?
クラスの全員、「実はいい奴なのに、社会のせいで悪く染まっていた」だなんて、そんなことありえました?
子供はそんな単純じゃないですよ。子供を馬鹿にしているんでしょうか。
……僕は思うのですが、子供だろうと何だろうと、いい奴はいるし憎たらしい奴はいます。
それは大人の社会でもそうであるように、当たり前のことであり、決して「子供は天使」なんかじゃないのです。
それは自分の思い出を振り返ってみれば誰にだって分かることです。
それに、最終回は、完全に和解した教師と生徒達が一緒に、全員にこやかに笑ってるって……
いくらハッピーエンドだからって、僕はそんなクラス嫌だわ。気持ち悪い。
大体、和解するのはいいとして、生徒達が今までの行いを反省したところを見たことない。
GTO(漫画のほうね)の最終回を読んでも思ったけれど、お前ら担任いじめで廃人にしちゃった先生は放置ですかと。
何の責任も取らなくていいんですかと。
ドラマを作る人、そして見る人は、そういう嘘くささを見ていて感じないのでしょうか。
それとも、「フィクションだから」という理由で、気にしないのでしょうか。
そもそも、原作の「生徒諸君!」にしてからが、そんなテンプレ的子供像から離れた魅力的なキャラクターが活躍する話だったはずですが……
原作ではなく「原案」となっているから、庄司先生(生徒諸君!の作者)がこういう筋書きの話を書いているのかは分からないのですが、そうではないことを願いたいです。
ちなみに、僕が一番好きな学園ものドラマは「さわやか三組」で、二番目は「中学生日記」です。
いいよね、さわやか三組。







